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浮かないか気にしてしまう朝に、ちょうどいい春靴 バレエスニーカーで叶う軽やかなお出かけコーデ

バレエスニーカー
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似合うより、なじむことを選んでしまう日のこと

バレエスニーカー

朝の空気が、やっと冬の角を落としはじめたみたいにやわらかかった。窓を少しだけ開けたら、洗いきれていない洗濯洗剤の匂いと、外から入ってくる少し湿った風が混ざって、部屋の中がなんとも中途半端な春になった。

ベッドの足元には昨日たたみそびれた部屋着のパーカーが落ちていて、テーブルの端には飲みかけの麦茶。カーテン越しの光は明るいのに、部屋そのものはまだ寝ぼけているみたいで、そういう朝に限って、出かける予定だけが少しきれいに見える。

今日は、友達と遅めのランチをして、そのあと川沿いを少し歩こうというだけの日だった。特別な予定ではない。でも、特別じゃない予定の日ほど、服に迷う。気合いが入りすぎていると思われたくないし、かといって、いかにも間に合わせみたいなのも嫌だ。そのあいだの、誰にも指摘されない程度にちゃんとしている感じを探す作業は、思っているより神経を使う。

スマホでなんとなく見ていた春の靴のページに、バレエスニーカーが出てきた。バレエシューズみたいな軽やかさがあるのに、ちゃんとスニーカーの底で歩けるやつ。

しかも、今回見ていたものはメリージェーンっぽいデザインに、ベルクロとドローコードがついていて、モノトーンの中に小さなモチーフが効いている。6cmのボリュームソールで、見た目は甘すぎないのに少しだけ背筋が伸びる感じがあり、ブラックやグレーのメッシュ、スエード調のブラウン系までそろっていて、春のソックス合わせにも似合いそうだった。

軽めのつくりらしい、という説明まで読んでしまうと、急に「ちゃんと生活の延長で履けそう」という気がしてくる。こういうところがずるい。夢みたいなおしゃれではなくて、現実の電車とコンビニと、少し長い歩道橋のためのおしゃれに見えるから。

たぶん私は、春そのものが好きというより、春にうまく紛れ込める格好をしている自分を一瞬だけ信じたくなるのだと思う。冬のあいだ隠していた気持ちや輪郭が、薄手の服に変わることで急に表へ出てきてしまいそうで、少し怖い。そのくせ、新しい靴は気になる。そういう矛盾を、毎年同じようにやっている。


靴箱の前で立ち止まった朝

玄関のたたきは朝のうちはまだひんやりしていて、裸足だと一瞬だけ体がしゃんとする。靴箱の前にしゃがみこんで、黒いローファー、白いスニーカー、少し前に買ったけれど出番の少なかったフラットシューズを順番に見た。どれも別に悪くない。悪くないけれど、今日の気分には少しずつ違った。

ローファーだと、ちゃんとしすぎる。白いスニーカーだと、いつもの通勤帰りみたいになる。フラットシューズは、可愛いけれど駅の階段でたぶん後悔する。結局私は、服を選んでいるようでいて、いつも“疲れない言い訳”まで一緒に選んでいる。

バレエスニーカーって、その言い訳と願望のちょうど真ん中にいる靴だなと思った。可愛いほうへ少し寄りたい。でも、ちゃんと歩けるほうも捨てたくない。甘く見えすぎるのは恥ずかしい。でも、いかにも無難なのもつまらない。あれはたぶん、そういう中途半端な気持ちにかなりやさしい。

家を出る少し前、姿見の前で、ネイビーの薄いジャケットを脱いで、生成りのカーディガンに替えた。ほんの数秒のことだったのに、その動作だけで今日の自分の機嫌が少し変わるのがわかった。誰もそんなところ見ていないのに、と思う。でも、誰も見ていないからこそ、自分だけが知っている小さな差が大きくなることもある。

こういうの、わかる人にはわかると思う。外から見たらほとんど同じなのに、自分の中ではぜんぜん違う朝、ある。

駅までの道で、ごみ収集車のバック音がして、向かいのマンションのベランダには薄い毛布が干されていた。春って、花が咲くことよりも、生活の細部が少しずつ冬じゃなくなることで来るのかもしれない。コートを着ない腕の軽さとか、コンビニの棚に冷たいお茶が増えることとか、スニーカーに合わせる靴下の色で迷うこととか。そういう、たいしたことのない変化の集まり。


ほんとうは、似合うかより「浮かないか」を気にしていた

バレエスニーカー

電車の窓にうっすら映った自分を見たとき、最初に思ったのは「今日の服、好きかも」じゃなかった。「これ、頑張ってるって思われないかな」だった。

自分でも少し嫌になる。誰に、と思う。友達にか、駅ですれ違う知らない人にか、それとも自分の中にまだ残っている、昔の意地悪な目線にか。たぶん全部だ。

私は昔から、好きな服より、浮かない服を先に覚えてきた気がする。教室でも職場でも、なんとなく場に合っていることは便利だった。服だけじゃなく、笑い方も、返事のタイミングも、話題の選び方も、だいたいそうだった。もちろん、そのおかげで助かったこともある。余計な摩擦をつくらなくて済んだし、いちいち疲れ果てなくて済んだ日もある。

でも、春のお出かけみたいな、少しだけ心を軽くしたい日にまで、その癖が先に出てくると、なんだかもったいない気もする。可愛いと思ったものをそのまま「可愛い」で終わらせずに、いったん“許される可愛さ”の範囲まで薄めてから着ようとする感じ。あれは、慎重というより、たぶん長年の習慣だ。

友達から「今日、なんか春っぽくていいね」と言われたとき、私はすぐに「でもこれ、ほんとはもっと明るい靴にしようか迷ったんだよね」と、なぜか言い訳みたいなことを口にしてしまった。褒められたなら、普通に「ありがとう」でよかったのに。そこでわざわざ自分のテンションを一段下げる必要なんてないのに。

誰にも言っていない本音を言うと、私はたぶん、うれしいときほど平気なふりをしてしまう。はしゃいでいると思われるのが恥ずかしいのだと思う。ちゃんと楽しみにしていたことが見えるのも、案外こわい。期待していました、可愛いものが好きです、今日を少し良い日にしたいと思っています、そういうのを全部見透かされるくらいなら、最初から少し醒めた顔をしていたい。

面倒くさい。ほんとうに面倒くさい。でも、そういう面倒くささが自分の中にあることを、最近は前より少しだけ認められるようになった。治したい、というほどでもない。ただ、ああまた出たな、と思うだけだ。


歩きやすさを選んだはずなのに、心の窮屈さに気づいた

ランチのあと、川沿いの道を並んで歩いた。風が少し強くて、友達のトレンチコートの裾が何度もふくらんだ。遠くで子どもの声がして、橋の下から電車の通る低い音が響く。日差しは明るいのに、日陰に入るとまだちゃんと寒い。春は親切そうに見えて、足元ではけっこう油断ならない季節だと思う。

そんな道を歩きながら、私はふと、自分が「歩きやすい靴」を選ぶとき、本当に守りたいのは足じゃないのかもしれない、と思った。

もちろん、疲れにくいことは大事だ。靴擦れもしないほうがいいし、帰り道に足が痛くて無言になるのは避けたい。だけどそれと同じくらい、私は“気持ちが置いていかれないこと”を大事にしていたのかもしれない。

可愛いけれど気後れする靴、目を引くけれど自分の生活になじまない靴、そういうものを履くと、一日じゅう自分を説明し続けるみたいな気分になることがある。今日の私はこういう人です、無理していません、でも投げやりでもありません、みたいに。

たかが靴なのに、と思う。でも、たかが靴にその日の気分がずいぶん左右される日もある。たぶん服は、外側のものという顔をしながら、思っている以上に内側の整理とつながっている。

バレエスニーカーが今ちょっと気になるのも、そのせいかもしれない。バレエシューズほど繊細さを要求してこないのに、普通のスニーカーほど「なんでもない顔」をしていない。ベルクロで着脱しやすく、ドローコードでフィット感も調整できて、ソックス合わせの楽しさもある。甘さと実用のあいだを、いい顔せずにまたいでいる感じがする。完璧に女性らしいわけでも、完全にカジュアルへ逃げるわけでもない。その曖昧さが、今の自分には妙にしっくりくる。

昔は、曖昧ってあまり良い言葉じゃないと思っていた。白黒つけられないこと、意思が弱いこと、半端なこと。でも最近は、曖昧でいられる余白があるほうが、むしろ生活に向いていると思うようになった。可愛いけれど歩ける、ちゃんとして見えるけれど気張りすぎない、ひとりの時間にも友達と会う日にも使える。そういう“どっちも少しずつ持っているもの”に惹かれるのは、たぶん大人になったからというより、毎日を雑にしすぎずに回したいだけなのだと思う。

わかる、って声に出したくなるのは、たぶんこういうときだ。好きなものを選びたいのに、生活に無理があるとすぐ続かない。その現実を知ってしまったあとでも、ちゃんと少しときめきたい。そういう欲張りさは、意外とみんな持っている。


春に似合うのは、明るさより「少しだけほどけること」なのかもしれない

帰りの電車では座れなくて、つり革につかまりながら、スマホの黒い画面に映る自分をぼんやり見ていた。朝より少しだけ髪が乱れていて、口紅もだいぶ薄くなっていて、でも、それくらいのほうが今日はちょうどいい気がした。

今日いちばん残ったのは、ランチがおいしかったことでも、川沿いの桜のつぼみが思ったより膨らんでいたことでもなくて、靴や服を選ぶときに私はずっと「自分が何を好きか」より先に「これで場がざわつかないか」を確認してきたんだな、という小さな気づきだった。

別に、それが全部悪いわけじゃない。人に合わせる力は、社会で生きるうえでけっこう役に立つし、空気が読めることで救われる場面もある。でも、そればかり先に働くと、自分が何に機嫌よくなれるのかが少しずつわからなくなる。無難は失敗を減らすけれど、体温まで少し下げることがある。

春のお出かけコーデって、もっと華やかな言葉で語られることが多い。軽やかに、ときめいて、色を足して、出会いの季節らしく、みたいに。でも実際の私は、もっと地味なところで揺れている。階段をちゃんと上り下りできるか。急に予定が伸びても機嫌よく歩けるか。頑張りすぎて見えないか。でも手を抜いたとも思われたくない。その全部のあいだで、小さく折り合いをつけながら服を選んでいる。

たぶん今日、新しかった視点はそこだった。春に似合うのは、べつに“明るい人”になることじゃないのかもしれない。無理に前向きになったり、新しい自分に生まれ変わったりしなくても、少しだけほどけた選び方ができること。似合うかどうかを一回脇に置いて、「今日はこれを履いたらちょっといいかも」と思える余白を、自分に渡してあげること。

それは、自信を持つこととは少し違う。自己肯定感みたいな大きい言葉でもない。ただ、浮かないことばかり考えて縮こまっていた気持ちを、半歩だけゆるめる感じ。うまく言えないけれど、そういう小さな緩みのほうが、案外その日の空気を変える。

次に靴を選ぶ朝、私はまたたぶん迷うし、いつものように無難さと機嫌のあいだを行ったり来たりすると思う。それでも、少しだけ違うのは、迷っている自分を前より嫌わなくて済みそうなことだ。春の服って、誰かに見せるためのものでもあるけれど、それ以上に、自分の中の固まっていたところを少しゆるめるためのものなのかもしれない。

そう考えると、靴箱の前で立ち止まる朝も、そんなに悪くない。

ほんとうに欲しいのは、目立つことでも、褒められることでもなくて、出かけた先で自分の気分を置いていかないことなのかもしれない。今日の私は、たぶんそこだけは、少しだけわかった。


バレエスニーカー

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