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犬のごはんは悩めるのに自分の食事は適当な夜に気づいたこと|国産無添加ドッグフードDr.ケアワンという選択

餌を食べる犬
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ペットのごはんは真剣に選べるのに自分は後回しな理由|国産無添加ドッグフードDr.ケアワンと暮らしの違和感

餌を食べる犬

雨が上がったあとの夜道は、乾いていく途中のアスファルトが少しだけ光って見える。ああいう中途半端な濡れ方って、妙に生活っぽくて好きだ。駅前のドラッグストアの明かりが歩道ににじんでいて、信号待ちのあいだ、私はエコバッグの持ち手を指に巻きつけたりほどいたりしていた。中には豆腐、納豆、冷凍うどん、安くなっていた長ねぎ。だいたい、こういう日は献立ではなく値引きシールで晩ごはんが決まる。

スマホに通知が一件だけ入って、見たら、学生時代の友人からだった。
「今、犬のごはんでずっと悩んでる。変えたいんだけど、またお腹ゆるくなったらかわいそうで」

ああ、そういう悩みか、と思った。恋愛でも仕事でもなく、犬のごはん。大人になると、相談の主語が少しずつ変わっていく。昔は誰を好きになったとか、上司が無理だとか、転職サイトを開いたまま閉じたとか、そういう話ばかりだったのに、今は犬の涙やけとか、親の通院とか、洗濯機の買い替えとか、そういう現実の粒が会話に混ざる。


それでいて、その粒のほうが案外、その人の毎日をよく表していたりする。

帰宅して、靴を脱いだ瞬間に、部屋のぬるい空気が足首にまとわりついた。暖房は切って出たはずなのに、昼間のこもった感じがまだ少し残っている。シンクには朝のマグカップがそのままで、テーブルには昨日のレシートが裏返しで置いてあった。別に荒れてはいない。でも整ってもいない。その半端さが、今の私にはいちばん正直だった。

友人が送ってきたスクリーンショットには、「Dr.ケアワン」というドッグフードの商品ページが映っていた。公式では、動物栄養学博士監修の国産無添加ドッグフードで、乳酸菌やグルコサミン・コンドロイチンを配合した成犬用総合栄養食、成犬からシニアまで長く与えやすく、オイルコーティングをしていないことも案内されている。販売ページでは通常購入のほか定期コースも用意されていた。

その情報を見た瞬間、犬を飼っていない私は、正直に言えば、最初に「ちゃんとしてるな」と思った。商品に対してというより、それをちゃんと調べている友人に対して。


そして、その次に、もっと小さくて、少し棘のある本音が浮かんだ。
私、自分のごはんはここまで考えてないな。

冷凍うどんを茹でるために鍋に水を入れながら、なんだかそのことが妙に引っかかった。自分の食事は、安いか、早いか、洗い物が少ないか、だいたいその三択で回しているのに、大事な存在のごはんとなると、人はちゃんと立ち止まれるんだな、と思った。別にそれが悪いわけではない。むしろ、すごく自然なことだ。なのに、なぜか少しだけ胸のあたりがざらついた。

その子の器は、ちゃんと毎日洗われている

友人に電話したのは、うどんを茹でているあいだだった。
湯気でキッチンの小窓が白く曇って、換気扇の音が会話の後ろでずっと鳴っていた。

彼女は、最近うちの子がごはんを残すことが増えたとか、涙やけが気になっているとか、前のものは食べるけどなんとなく合っていない気がするとか、そういう話をした。たぶん誰かにとっては「犬の話」でしかないのだけれど、その話し方には、毎日同じ器を洗って、同じ床を拭いて、ほんの少しの変化を見逃さない人の生活がにじんでいた。

「人間なら、自分で『今日は胃が重い』とか言えるじゃん。でも犬は言えないからさ」と彼女は笑った。
笑いながら言っていたけれど、その言葉の奥には、伝えてくれない相手の小さな不調を、勝手に想像して背負う疲れみたいなものも、たしかにあった気がする。

私は、へえ、とか、そっか、とか、なるほどね、とか、そんな合いの手しか打てなかった。犬を飼っていないから、わからないことも多い。けれど、わからないなりに伝わってくるものはあった。
ちゃんと大事にする、って、派手な愛情表現じゃなくて、こういう細かい面倒を当たり前みたいに引き受けることなんだろうな、ということ。

電話を切ったあと、うどんは少し茹ですぎていた。私はよくそういうことをする。何か考えごとをしていて、火加減でも時間でもなく、別のところに意識が流れていってしまう。麺はやわらかくなりすぎていて、ねぎも切り方が雑で、見た目はまったくおいしそうじゃなかった。でも不思議と、その夜は、それを見て少し笑ってしまった。


自分のごはんって、ほんとうに適当だな、と思って。

ただ、その「適当」が、怠慢だけでできているわけじゃないのもわかっている。仕事から帰って、電車で変な姿勢のままスマホを見すぎて肩が重くて、コンビニの新作スイーツは気になるのに銀行残高も気になって、帰った部屋がほんの少し散らかっているだけで、気力って驚くほど削られる。そういう日には、自分に手をかけることが、丁寧なくらしというより、課題みたいに感じてしまう。

だから、犬のごはんを真剣に選ぶ友人を見て、「私は私を雑に扱っている」と単純に落ち込んだわけではなかった。
でも、少しだけ思った。
誰かのためならできる慎重さを、自分に向けるときだけ、私たちはやけに照れる。

わかる、と思う人、きっといるはずだ。
体調が悪いわけじゃないから後回し、機嫌が落ちていても忙しいから仕方ない、食事も睡眠も部屋の空気も、致命傷じゃないなら見なかったことにしてしまう。自分のことって、自分で決められるぶん、つい雑にできてしまう。

自分にだけ適当でいられるのは、たぶん強さじゃない

その夜、食べ終わった丼をしばらく流しに置いたまま、私は椅子に座ってぼんやりしていた。照明は少し黄ばんだ色で、天井の隅にうっすら埃が見える。たまにこういう時間がある。何をしているわけでもないのに、今日の中でいちばん本音が出やすい時間。

本当はあのとき、友人に少し意地悪なことを思った。
犬にはそこまでできるのに、自分のごはんはどうしてるの、って。
でもそれはたぶん、彼女への意地悪というより、自分への苛立ちだった。

私はたぶん、誰かや何かを大事にしている人を見ると、ときどき焦る。恋人でも、家族でも、仕事でも、推しでも、ペットでもいい。対象は何でもいいけれど、自分の時間やお金や気力を、ちゃんと「大事にしたいもの」に流している人を見ると、自分の輪郭が少し曖昧になる。
私は何に、そこまでの手間をかけているんだろう。
そう考えてしまう。

しかもやっかいなのは、その問いにすぐ答えが出ないことだ。
仕事、と胸を張るほどの情熱ではない。婚活、と言い切るほどの熱量でもない。趣味、と呼ぶには続かなかったものが多い。自分磨き、という言葉は便利だけど、便利すぎて、ときどき中身のない紙袋みたいに感じる。

だから余計に、誰かが迷いながらも「この子のために、ごはんを見直そう」と動いている姿がまぶしく見えた。
目的がはっきりしている人は強い。
いや、強いというより、迷いの使い道がうまいのかもしれない。

私は迷うこと自体は得意だ。いくらでも迷える。
スーパーで納豆の値段を比べて、買うべきか買わないべきか考えて、結局いちばん安いものをかごに入れる。そんな迷いは毎日している。
でも、その迷いの先に「大事にしたい」が乗っていないと、ただ疲れるだけで終わる。

友人はきっと、犬のごはんを選びながら、家計のことも考えているだろうし、食いつかなかったらどうしようとも思っているだろうし、ネットの口コミが本当かどうかにも揺れているはずだ。だけど、それでも選ぶ理由がある。
その姿を見ていて、少しだけ気づいた。


人は「正しいもの」を探しているというより、「後悔の少ない手のかけ方」を探しているのかもしれない。

完璧な選択じゃなくていい。でも、自分が無関心だったとは言いたくない。
たぶん、そういうことなんだと思う。

それは犬のごはんに限らず、私たちの日々にも似ている。
たとえば帰り道にコンビニでホットスナックを買うかどうか悩むとき、ただ節約の話だけじゃない日がある。今日はなんとなく自分を雑に終わらせたくない、とか、逆に、もう今日は何も考えず塩分に甘えたい、とか、そういう小さな感情が混ざっている。
生活って、栄養やコスパだけでできていない。
その日の自分を、どのくらい見捨てずにいられるか、みたいなことも入っている。

たぶん必要なのは、立派な正解じゃなく、見過ごさない手つき

餌を食べる犬

寝る前に、私は珍しくマグカップを洗って、シンクの排水口のごみも捨てた。たったそれだけのことなのに、水の音で部屋の空気が少し入れ替わる感じがした。
こういうの、別に丁寧な暮らしと呼ぶほどじゃない。SNSに載せるような整った場面でもない。
でも、自分の生活を無視しないって、こういう地味な動作のことかもしれないと思った。

私は犬を飼っていないから、友人の悩みをそのままは共有できない。
けれど、「言葉を持たない相手の違和感に先回りしようとすること」は、少し違う形で、自分にも向けられるのかもしれないと思った。


お腹が空いているのにコーヒーでごまかしていないか。
部屋が散らかっているせいで、余計に何もしたくなくなっていないか。
通知を見たくないのに、寂しさで何度も画面をつけていないか。

そういうのって、全部すごく小さい。でも、小さいから後回しにしてしまう。
そして後回しにしたものって、ある日まとめて「なんかしんどい」という曖昧な形で返ってくる。
明確な不調じゃないぶん、扱いにくい。
でも本当は、あの犬の食器の汚れみたいに、毎日の中で少しずつ溜まっていたのだと思う。

明日すぐ真似できることがあるとしたら、たぶん大げさなことじゃない。
「今日は何を足せばちゃんとするか」ではなく、
「今日は何を見過ごさないでおくか」をひとつ決めること。
それだけで、少し違う。

ちゃんとした朝ごはんじゃなくてもいいから、水を飲む。
全部片づけなくてもいいから、椅子の背にかけっぱなしの服だけ戻す。
誰かに優しくできなかった日でも、自分にだけ投げやりな夕食を出さない。
そういう、ごく小さいこと。

もちろん、そんなので人生が整うわけじゃない。
次の日にはまた、冷凍うどんとレトルトで済ませる夜もあるだろうし、床に置いた紙袋をまたいで寝る日もある。
でもそれでも、一回でも「見過ごさない」ができると、自分に対する雑さが全部ではなくなる。
それは、思っていたより大きい。

友人はたぶん、犬のごはんを変えるかどうか、まだ迷っていると思う。
私はその結論を知らないまま眠った。
ただ、あの夜から、自分の生活を見る目がほんの少し変わった。
私は私のことを後回しにしがちだけれど、だからといって無関心でいたいわけではなかったらしい。

雑にしているつもりの場所に、その人の本音は残る

今朝、冷蔵庫を開けたら、昨日の残りのねぎが少し乾きはじめていた。
ああ、早めに使わないと、と思いながら扉を閉めた。
そういう、誰にも見せない判断が、毎日のあちこちにある。
立派でも、映えてもいないけれど、生活はだいたいそういうものでできている。

犬のごはんを選ぶことも、自分の夜を適当に終わらせないことも、たぶん根っこのところでは少し似ている。
何かを特別に愛している人だけができることじゃなくて、見過ごしたくないものに対して、少しだけ手間を引き受けること。
愛情って、感情の強さより、面倒の引き受け方に出るのかもしれない。

そう思うと、昨日の自分のざらつきにも、少しだけ説明がつく。
私はたぶん、友人の犬がうらやましかったんじゃなくて、
誰かにそこまで考えてもらえる存在が、というより、
誰かをそこまで考えられる彼女の生活の芯みたいなものが、少しまぶしかったのだと思う。

そして、そのまぶしさに照らされて、自分の雑な部分が見えた。
見えたから、少し居心地が悪かった。
でも、見えないまま通り過ぎるよりは、たぶんましだった。

私たちはたぶん、毎日を大切にしたいわけじゃない。そんなきれいな話ではなくて、
せめて自分の生活に、あとで自分が置いていかれないようにしたいだけなんだと思う。
昨日の自分が決めた適当さに、今日の自分が少し困らされる。そういうことが続くと、人は静かに疲れる。
だから、全部じゃなくていいから、ひとつだけ見過ごさない。
それくらいの手つきで、なんとか暮らしていけたらいい。

犬の器を洗うみたいには、まだ自分を扱えない日もある。
でも、自分にだけ雑でいられることを、強さだとはもう呼ばない気がする。

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