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選ぶ基準がわからなくなった日に、天然ジュエリーの言葉だけが残った

天然石ジュエリー
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天然ジュエリーに惹かれる理由が、きれいだからじゃない日があった夜の話

天然石ジュエリー

今朝は、ベッドの端に座ったまま、洗濯機の終了音をぼんやり聞いていました。外は冬の乾いた青で、カーテンの隙間から入る光がやけに白くて、部屋のホコリまで正直に照らす感じ。仕事の準備をしなきゃなのに、手が止まって、マグカップの底に残ったぬるいコーヒーを見つめていました。


“今日、なんか静かすぎるな”って。
一人暮らしって、自由なのに、たまに静けさの圧が強い日がある。誰に急かされるわけでもないのに、なぜか自分で自分を追い立ててしまう、あの感じ。予定はこなせるのに、心だけ置き去りになる日、あります。

そんな朝に限って、スマホの広告がやたら「ご褒美」顔をしてくるんですよね。バッグ、時計、ジュエリー。なかでも目についたのが「天然ジュエリー」という言葉でした。天然石、天然ダイヤ、自然が作った一点もの——。
きれいだし、憧れる。だけど同時に、胸の奥がちょっとだけ、もぞもぞする。


私はまだ、そこに言葉をつけられないまま、駅に向かいました。改札の前でコートのポケットを探って、鍵が見つからなくて一瞬焦って(結局、別ポケットにいた)、その小さな慌て方が、今日の私の“地に足ついてなさ”をよく表していました。


1) 休憩時間、同僚の指先がやけに眩しかった

今日の「小さな出来事」は、昼休みの給湯室でした。
カップ麺にお湯を注いで、ふぅって息をついたタイミングで、同僚が手を洗いながら、何気なく指輪をくるくる回していたんです。爪のケアの話じゃなくて(今日はそこに行かない、私)、ただ、石の中に小さな影みたいなものが見えたのが気になって、つい「それ、かわいい」と言ってしまった。

「天然の石なんだって。内包物があるのが好きで」
さらっと言われて、私は一瞬、うまく笑えなかった。


“内包物があるのが好き”って、すごく素敵な言い方なのに、私は頭の中で勝手に変換してしまったんです。
「欠点を、味って呼べる人って強いな」って。

天然の宝石って、自然の中でできるから、微量の不純物や内包物(インクルージョン)が入っていることが多い、とよく言われます。合成石は成分が同じでも人工的に作られた石で、区分としては「天然」ではない、という整理になったり、鑑別機関で確認したりする世界がある。


ラボ(研究室)で育てたダイヤモンドも、化学的・物理的・光学的性質は天然とほぼ同じで、見た目だけで区別するのは難しい、とGIAも説明しています。


つまり、目に見える「きれい」だけでは、本当の違いはわからないことが多い。

それなのに私は、その指輪を見た瞬間、心のどこかでこう思ってしまった。
「いいな。私も“天然”って言いたい」って。


誰にも言わなかった本音は、たぶんこれ。


“きれいだから欲しい”より先に、“天然って名札が欲しい”が出てきた自分が、ちょっと恥ずかしかった。なんだろう、仕事で成果を出したいときの「評価されたい」と似てる。選ぶものまで、誰かの採点に預けそうになる自分がいて、そこがいちばん恥ずかしい。

わかる…。欲しいものがあるとき、物そのものより「それを選んだ私」を好きになりたくなる瞬間、ある。


2) 「本物」って言葉が、いつも私を落ち着かなくさせる

午後、デスクに戻ってからも、あの指輪が頭から離れませんでした。
天然って、なんでこんなに強いんだろう。天然水、天然素材、天然の香り。


“自然”って言われると、よいものに思えるし、同時に、ちょっとだけ正義っぽくも聞こえる。私もきっと、その空気に弱い。だって、疲れているときほど「正しいもの」「間違ってない選択」にすがりたくなるから。

でも、天然ジュエリーが「自然の産物」だとして、その自然は、誰の手の上にあるんだろう。
急に、気持ちがザワついたのは、そこでした。

ダイヤモンドの世界には、紛争の資金源になった「コンフリクト・ダイヤモンド」という言葉があって、その流通を減らすためにキンバリープロセス(KPCS)という国際的な枠組みがある、と知ったのはだいぶ前です。


“天然”の背景には、採掘や流通の長い道のりがある。もちろん、すべてが問題という話ではなくて、取り組みも続いている。
それでも私は、キラキラした広告の言葉だけを信じて、簡単に安心したくなるクセがある。今日の私は、そのクセを見つけてしまった。

それともうひとつ、今日引っかかったのは「天然=無処理」という思い込みでした。
宝石って、色や透明感を整えたり、耐久性を上げたりするために、加熱・含浸・充填・照射・コーティングみたいな処理が行われることがある、と知識としては知っていたのに、気持ちの上では切り離していた。
たとえばエメラルドは、クラックが多い性質からオイルや樹脂の含浸が一般的で、鑑別書にはその旨が記載されることがある、という話もある。
つまり「天然」は、必ずしも「手が加わってない」と同義じゃない。天然でも、人の手が入っていることはあるし、それ自体が悪いとも限らない。大事なのは、ちゃんと説明されているか、そして自分が納得して選べるか、なんだと思う。

そういえば最近、「天然か、ラボか」という話題もよく目にします。ラボで作られたダイヤは短期間で育つ一方、見た目も性質も天然とほぼ同じで、価格も大きく違うことがある、といった話。


“じゃあ、どっちが正しいの?”って二択にしたくなるけど、たぶん、答えはそんなに単純じゃない。
私が今日落ち着かなかったのは、石の種類の問題というより、「本物」という言葉に、いつも自分の価値をくっつけそうになるからだと思います。


本物を身につければ、自分の生活まで“本物っぽく”なる気がして、でも実際は、寝癖のままゴミ出しに行って、スーパーで半額シールに心を躍らせてる。そういう現実と、広告の「ご褒美」の間で、私の心だけが変にバグる。

3) 帰り道にした、小さな行動が意外と効いた

天然石ジュエリー

仕事帰り、駅の近くの小さなジュエリーショップに寄りました。買うつもりじゃなくて、ただ見たくて。こういうの、私の悪い癖です。お腹が空いてるのにスーパーでお菓子売り場を一周する、みたいなやつ。


店員さんに話しかけられる前に、ケースの端っこにある小さな札を読むふりをして、まず深呼吸。ふりをしないと読めない、っていうのも、我ながら小心者で笑える。

そこに書いてあったのは、石の名前だけじゃなくて、「処理の有無」「産地」「鑑別書の有無」みたいな情報でした。
“天然”って一言でまとめずに、ちゃんと説明しようとしている感じがして、少しだけ安心した。
同時に、私は思ったんです。


私は今まで、ジュエリーを「気分を上げるもの」くらいにしか見てこなかったけど、本当は、石の背景も、選び方の基準も、もっと自分で持っていいんだって。

今日の私の「ささやかな変化」は、買うか買わないかじゃなくて、質問の仕方でした。
「それって天然ですか?」じゃなくて、
「どういう経路のものですか?鑑別書には何が書かれますか?処理があるなら、どんな処理ですか?」と、心の中で言い換えた。声に出せなかったのは、たぶん、店員さんの時間を奪うのが怖いのと、詳しいふりをして空回りしたくないのと、その両方。けど、頭の中で言い換えられたのが、私には大きかった。

“天然”に惹かれる自分を否定したいわけじゃない。
ただ、名札だけで安心して、考えることを放棄したくない。


同僚の「内包物が好き」って言葉が素敵だったのは、欠点を肯定しているからじゃなくて、石をちゃんと見て、自分の好みとして引き受けていたからなんだと思う。

家に帰って、アクセサリーケースを開けたら、昔買った小さなリングが一つだけ入っていました。たぶんセールで、勢いで買ったやつ。正直、最近はつけてなかった。


でも今日、指にはめてみたら、石の価値とか由来とかより先に、「あ、私の手って、今日もちゃんと働いた手だな」って思ったんです。ちょっと乾燥してるし、指先も赤いし、生活感しかないのに、その生活感が、急に愛おしいみたいな。
本物って、外側から貼るシールじゃなくて、毎日の手触りの中にもあるのかもしれない——なんて、言い切るとまた説教っぽいから、ここでは小声にしておきます。

私はまだ、キラキラした言葉にふらっと吸い寄せられるし、たぶんこれからも「天然」の二文字に弱い。
でも今日、少しだけ違和感に立ち止まれた。


それだけで、帰りの電車の揺れが、ほんの少しだけやさしく感じました。

最後に、ひとつだけ余韻みたいな問いかけを残しておきます。
あなたが「本物が欲しい」と思うとき、その“本物”って、石のことですか、それとも、選んだ自分のことですか。


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