捨てられない服が一着あるだけで、暮らしが少しだけ優しくなる夜

夜の8時すぎ。暖房の風が当たる位置だけ、肌が乾く。窓の外は黒くて、マンションの廊下の照明が白くて、カーテンを閉めてもなんとなく世界の輪郭が透けてくる。
テーブルの上には、脱いだばかりのコートが畳みきれずに置かれている。今日、うまくいかなかった。ほんの小さなことなのに、私の中では意外と重たいこと。
そのコートは、私の「お気に入りの一着」だった。
買ったのは数年前。値段は、私にとっては背伸びの部類で、レジでカードを差し込む指がちょっと震えたのを覚えてる。あのときの私は「これなら何年も着るから」と、未来の自分を盾にして、今の自分を説得した。
そういう買い方って、ずるいようで、でも生活の中ではよく使う。未来の私に借金じゃなくて、未来の私に希望を預ける、みたいな。
今日、そのコートを着て出かけたのは、上野だった。理由は、ニュースを見たから。上野動物園でのパンダの公開が「最終日」だと、どこかで見かけた。
いつもなら、こういう“みんなが行く日”は避ける。混雑が苦手で、列に並ぶと自分の気持ちが薄まる感じがして。でも今日は、変なスイッチが入ってしまった。理由はたぶん、最近ずっと「大事なものを大事にできてない」感があったからだと思う。仕事も、友だちも、部屋の観葉植物も。大事にしたいのに、手が届かない。そんなときに「最後」という言葉は、やけに強い。
Yahoo!のトップに並んでいた見出しの中に、「15年間毎日パンダ撮影 最後の観覧」みたいな言葉があった。
ああ、そうか。誰かは15年、毎日、同じ場所に通って、同じ被写体を撮り続けてきたのか。私は数年に一回、気が向いたら見に行く程度なのに。「好き」って、量で測れないはずなのに、量で殴られると、急に自分の好きが薄っぺらく感じる。胸がきゅっとなる。
駅から上野公園に入った瞬間、空気が少しだけ違った。冬の公園って、土が冷たくて、木が静かで、人の声だけが浮く。なのに今日は、その人の声が、いつもより高い。みんな、少し興奮してる。スマホを握る手が早足で、目が先を急いでる。列は、思ったよりもずっと長かった。最後の日なんだから当たり前なのに、当たり前に負けた気分になった。
ここで最初の「うまくいかなかったこと」が起きる。
列に並んでいる途中で、私のコートの袖口が、どこかに引っかかった。ほんの小さな音。布が擦れる、あのいやな音。心臓が一段下に落ちるみたいな感覚。見たら、袖口の糸が、ちょっとだけ、ぴろっと出ていた。たったそれだけ。なのに、私は急に腹が立った。引っかけた自分に。混んでいる列に。荷物が多い人に。いや、正直、全部に。
「長く愛する」って、こういうことも含めて受け入れるってことだよね、と頭では言える。
でも、その瞬間の私は、受け入れられなかった。むしろ、「ほら、やっぱり。高かったのに」って、心の奥のいやな声が出てきた。高いものを買うときに私は「長く着る」って言い訳したくせに、長く着た先にある小さな傷を、許せない。矛盾が、自分の中でチクチクする。
私はコンビニで買った小さなハサミ(眉毛用のやつ)を思い出して、ポーチを探った。でも今日のポーチには入っていなかった。代わりに、リップと、のど飴と、レシートの束。生活の痕跡だけが出てきて、肝心なものがない。こういうときに、人生の縮図みたいだなって思う。必要なときに、必要な道具がない。
列は進む。人の肩が近い。誰かのマフラーが私の頬に触れそうで、でも避けるほどのスペースもない。私はコートの袖を、できるだけ内側に折り込んだ。糸が出ているところを隠すために。自分の不機嫌を隠すみたいに。
そして、私は見てしまう。周りの人の服。
同じようなダウン、同じようなスニーカー、同じような色のニット。でもその中に、くたくたのトレンチコートを着ているおばあさんがいた。袖口は少し擦り切れていて、ボタンの糸も緩い。でも、すごく似合っていた。彼女の歩幅と、そのコートの揺れが、ぴったり合っている。ああいう「馴染み方」って、どうやって作られるんだろう。買った瞬間に完成するおしゃれじゃなくて、時間でしか作れない感じ。
私のコートは、まだそこまで馴染んでいない。私は「綺麗に着たい」欲が強すぎるのかもしれない。お気に入りなのに、汚したくない。傷つけたくない。つまり、私の好きは、どこかでまだ“鑑賞用”なんだと思う。触りたいのに、触らせない。抱きしめたいのに、抱きしめない。そういう距離感。
「最後の日」に駆け込む気持ちと、ほつれた袖口

ようやくゲートが見えた頃、私の中の怒りは、少しだけ形を変えていた。怒りというより、焦り。今日来なかったら、もう見られない。そんな言葉に押されて来たのに、私はコートの糸一本で気持ちが乱れている。ほんと、何やってるんだろう。
パンダの前は、想像通りの人、人、人。みんな、スマホを上に掲げる。私も、掲げる。なんか悔しいけど。目の前にいるはずなのに、画面越しにしか見ていない感じがする。でも、画面越しにしないと「見た」気がしないのも事実。思い出って、手触りより証拠に寄っていく。
パンダは、いつものようにそこにいた。のんびりして、ちょっと眠そうで、竹をかじる音が静かで。周りがざわざわしているのに、本人は世界の中心にいないみたいに平然としている。それが、逆に胸にくる。最後の日なのに、最後を知らない顔。いや、動物に「最後」を押し付けているのは人間の方だよね。
ふと、さっきYahoo!で見た「15年間毎日パンダ撮影」という言葉がまた浮かんだ。毎日通った人の気持ちは、私には想像しきれない。でも、たぶんその人は、今日だけ特別だったわけじゃない。今日も、明日も、昨日も、同じようにシャッターを押した。その積み重ねの先に、たまたま「最終日」が来ただけ。最後に駆け込む私とは、時間の使い方が違う。そこでまた、ちくっとする。自分の浅さを見つけてしまったみたいで。
でもね、その瞬間、ちょっとだけ救われた気もした。
「浅い」って、悪いことだけじゃないのかもしれない。私は今日だけでも、ちゃんと来た。混雑が苦手でも、列が嫌でも、袖口がほつれても、来た。自分の好きが薄いなら、薄いなりに、今日の一枚を重ねた。厚さは一日で増えない。でも、ゼロじゃない。そう思ったら、ほんの少し呼吸がしやすくなった。
パンダを見終わって出口に向かう途中、私はコートの袖をもう一度見た。糸はまだ出ている。消えていない。なのに、さっきほど嫌じゃなかった。むしろ「今日の証拠」みたいに見えた。パンダの前でスマホを掲げた自分の、ちょっとした不器用さの証拠。焦って、急いで、でも来た。そういう一日が袖口に残ったみたいで。
これからも「大事にしたい」と言い続けるために
帰り道、上野の駅のホームで、私は急に不安になった。このコート、いつまで着られるんだろう。来年も着たい。再来年も着たい。できれば、十年後も着たい。そう思うのに、十年後の私は、今の私の気持ちを覚えていないかもしれない。袖口のほつれも、パンダの最終日も、きっと薄まる。生活って、そうやって上書きされていく。
「長く愛する」という言葉は、素敵に聞こえる。エコで、丁寧で、ちゃんとしてる感じがする。でも実際は、面倒だ。手入れがいる。修理がいる。気持ちの波がある。飽きる日もある。なんなら、嫌いになる日だってあるかもしれない。それでも「愛している」ことにしてしまうのは、たぶん、私が自分の選択を裏切りたくないからだ。
お気に入りの一着を長く愛するって、「服のため」みたいでいて、実は「自分のため」なんだと思う。
私は私の選んだものを、簡単に捨てたくない。簡単に見切りをつけたくない。だって、それは、自分の過去に「間違いだった」と言うみたいで怖いから。だから私は、ほつれた糸一本に過剰に怒る。過去の自分を守りたいから。守りたいのに、攻撃してしまう。ほんと不器用。
家に帰って、コートを椅子に掛けた。ハンガーに掛ける余裕がなかった。疲れていた。部屋着に着替えて、鏡の前で顔を見たら、乾燥で頬が少し赤い。今日、私は何かを見に行ったのに、いちばん見たのはたぶん自分の心だった。嫌なところも、弱いところも、ちょっと可愛いところも。
袖口の糸は、結局切っていない。直してもいない。明日やるかもしれないし、やらないかもしれない。どっちでもいい、って言い切れない自分がいる。大事にしたいのに、手をかけられない日もある。そういう日も含めて、長く愛するってことなのかもしれない。
今日のニュースは、画面の上では「最終日」だった。
でも私の中では、最終日みたいな気持ちは、たぶん明日も少し残る。残って、また薄まって、また別の何かに追い越されていく。それでも、袖口のほつれが教えてくれたのは、「好き」はきれいなままじゃなくても続けられる、ってこと。
追伸。列に並んでいる途中、私は一瞬だけ「こんなに混む日に来なきゃよかった」と思った。きっと、パンダじゃなくても同じことを思っていた気がする。電車でも、レジでも、人の多さに負けた日は、私はだいたい自分の機嫌を服に預ける。お気に入りを着ていると、少しだけ“ちゃんとしている私”になれるから。でも今日は、その鎧に小さな穴が空いた。穴が空いても、私は歩けた。それが今日いちばんの発見だった。
…ねえ、あなたの“お気に入りの一着”は、どこがいちばん先にくたびれていく?





